2009年3月21日土曜日

3/21 Today 空海入滅(835)……景気対策は空海に学べ!

空海 - Wikipedia: "承和2年(835年)、3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。"

短時間のうちに膨大な仕事を成し遂げた。とにかくやることが早い人だった。


例えば中国に行ったとき:
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。

永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。

長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。

5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。

8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。

8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。

同年12月15日、恵果和尚が60歳で入滅。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。

そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典等を収集した。8月に明州を出航して、帰国の途についた。

空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期の罪にあたるとされた。

日本から貰ってきた20年間分の留学費用を一挙に2年で有効に使ったということではないか。何事も小出しにしていては成果が得られない。大恐慌に当たっての経済政策も同じ。一番貴重な時間という資源を無駄に費消してはならないのである。

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